2017-02-25

2017-02-18

餃子の花

 夕飯に、フライパンで餃子を焼いた。

食後に洗い物をしていたら、餃子の花を見つけた。


2017-02-13

なぜ、あなたが勧める映画は観たくないのか

 最近、映画館に足を運ぶ機会が増えている。館内も、以前より席が埋まっている。もしかしたら、おれと同じように「映画館によく通うようになった」と感じる人は多いかもしれない。それに、最近、映画館で観た作品はどれもよかった。単館系の新作も、憧れていた名画も、帰り道の風景がちがって見える、素晴らしい体験ばかりだ。


 素晴らしい映画を観た時は、しばらく独りで反すうしたい。そして、一晩考えた後、感想や解釈を誰かと話したくなる。周りの人に「あれ、観に行った?」と聞くけれど、残念。誰も観ていない。こんな時に、おれは困る。きっとオモシロイから観てほしいし、なんならおれが2回目観に行く時に一緒に行く?って言いたい。言いたいんだけれど、自粛する。

だって、おれだったら、前情報を知りたくないし、初回は独りで観たいからだ。おれが映画を勧めたい相手も、きっと同じだ。だから、おれは「すごく、よかったよ」とだけ言って、自粛する。その映画の好きなところや、疑問や、感想は自分のノートに書くことになる。


 たまに「なにか映画観たいんだけれど、お勧めある?」と、聞かれると難しい。うまく答えられない。作品の選択よりも、お勧めの仕方が難しい。相手が「観たい!」と思って、観た後に「ああよかった!」と思う、勧め方。説明が少ないと「観たい!」と思わせられないし、多いと解釈の押しつけや、最悪の場合ネタバレになってしまう。自分の好きな映画のファンを増やすことができるのか、関心の芽を刈ってしまうのか、責任は重大だ。

 自分の周りの、映画の進め方が上手な人、下手な人のことを思い返してみた。知人に、勧めるのが下手な人がいる。この人は、映画を勧めることが好きで果敢に、積極的に勧めてくる。

しかし、残念ながら一度も「観たい」と思ったことがない。逆に、勧めてくれた作品が、前から観たいと思っていたやつだと、ガッカリ。「げ、あなたが勧めてくれたから観に行くんじゃないからね」と思う。既に観た作品だとホッとする。

この人がよく使う言葉が「日本人なら観るべき!」とか「〇〇なら観るべき!」だ。おれはいつも「何故あなたが日本人を定義するのか」と思う。「今年一番の傑作!」とか言われると「別にあなたの審美眼なんざ、誰も信用してないんだけどな」とすら思う。

この人がお勧めしたいのは作品じゃなくて、「映画を観た私」だ。この人が話したいのは自分の話。例えば「映画に出てきたシーンと似た状況の体験」「映画とまったく同じセリフを自分が言った場面」の話だ。だから、「あ、私もその映画観ました!」と言っても、不思議と、作品の感想や解釈については話がはずまない。だって、実は映画そのものはどうでもいいから。

 いっぽうで、勧めるのが上手い人は、作品の「好きなところ」をきちんと語る。

おれもお勧めする時には後者でありたいのだが、難しい。タモリ倶楽部に出てくるマニアックな趣味の持ち主や、アメトーークに出てくる芸人さんを見て、「好きなもの語り」が上手な人に憧れるのだ。

2017-02-10

WESTBAM "YOU NEED THE DRUGS"の歌詞

 WESTBAMの You Need The Drugs という曲がすごく好きになった。クラブの帰り道のこと。あるいは、クラブに向かう車中で、前に遊んだ友達のことを思い出すような。ワクワクと儚さの混じった雰囲気。歌詞も素敵だ。だけど一部わからないところがあったので辞書で調べて訳してみた。こんな感じだ。

土曜の夜は もうおわり 楽しかったね
もうすぐ おしまい
エンドクレジットが始まる
明け方の街は渋滞で 君はイライラ
ぼくたち どこにも行けない

ドラッグが要る
星が降って 君はかがやく
帰る前に もうひとつ
そっけないな
ドラッグが要る

きみの言う「明日」は、ぼくにはわからない
ぜんぶ終わって みんな無口で
君の影が 足元にまとわりつくのを見た
君はまた、守れない約束をする

ドラッグが要る
星が降って 君はかがやく
帰る前に もうひとつ
そっけないな
ドラッグが要る

 去年、「夜の力」邦訳を記念してWESTBAMが宇川直宏さんのDOMMUNEで自作を巡るトークとDJをした。石野卓球さん、TOBYさんもいて、おれは幸運にもスタジオで観覧できた。そこでビデオが流れたのが、この曲だ。ずっと頭にこびりついていて、ようやく思い出して手に入れた。



2017-02-05

人工知能は「ありがとう」を言うか?

 とあるコンビニで怖いものを見た。うまく文章で表現できるか、また読んでいる方が卒倒しない程度に怖さを伝えられるか、自信はないが、書きたいと思う。

そのコンビニはオフィス街にあり、まわりで働く会社員が主な客層だ。客足はあわただしいが客単価は低いだろう。3つ並んだレジはいつもフル回転だ。おれが訪れた時も、3人の男性店員がレジにいて、順に客の列を捌いていた。

列に並び、会計を済ませ、店を出ようとすると、「ありがとうございます」が聞こえた。レジにいたのはみんな男性店員なのに、声の主は女性だ。ふと、店内を見まわしたが、他に店員はいない。



 声の主は幽霊ではなかった。レジの脇に、小さなスピーカーが置いてあって、延々と「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」という音声が流れていた。

これを見つけた時、おれはゾッとした。こ、こ、怖い!そして、気持ち悪い!

おれはレジの脇で立ち尽くしてしまった。音声は、複数の声優(主に女性)を使い分け、いろんなトーンの「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」をループ再生している。さらに、気持ち悪い。



 この怖さ、気持ちわるさは、どこから湧いてきたのだろう。

スピーカーから流れる「ありがとうございます」は、言葉が本来表現している意味、気持ちから、最も遠い。「ありがとうございます」という音は鳴っているが、まったく何も意味していない。意味のない記号だ。

このコンビニの経営者は「『ありがとうございます』は、音として鳴っていればよい」という考え方なのだ。客の数は多いが単価が低い店舗であれば、回転数を上げたい。そのためには客一人あたりにかかる店員の時間を削減したい。一番、時間がかかって疲れるコミュニケーションの量を減らす為に、「ありがとうございます」マシーンを導入したのだろう。



 この経営者は、近い将来、接客やレジを人工知能が担うようになったら、人口知能に「ありがとうございます」を言わせるだろう。そして、それは意味のない記号だ。その考え方は気に入らないが、間違っていないと認めざるをえない。「意味のない記号」は今も日常にあふれているのだ。



 意味のない記号が、すんなり日常に溶け込んでいる例は、コンビニ店内を見まわしただけで枚挙にきりがない。

店員は、商品を陳列しながら、棚に向かって「いらっしゃいませ」と叫ぶ。店内BGMで尾崎豊が「アイラービュー」と歌っていても、人は皆、無表情で買い物をする。雑誌のコーナーに行けば、芸能人が不倫報道で叩かれているかと思えば、「美人人妻の云々」という扇情的な見出しが躍る。お洒落な雑誌の「スローフード特集」がコンビニに置いてあるのも、何かの冗談か。



 逆に、意味のない記号に、感情が動かされることもある。条件反射だ。

夕方、ふとつけたテレビで玉川カルテットが「金もいらなきゃ女もいらぬ、あたしゃも少し背が欲しい」と唸れば、意味を通り越して、おばあさんの横隔膜はアハハと振動する。クラブでEDMが流れていたら、記号のような盛り上げポイントで、気分はそれなりに高揚する。セックスじゃなくても、シリコンに性器を挟んでいれば気持ちいい。もっと言えば、シリコンを見ただけで欲情するかも知れない。



 少し、話がズレてしまった。シリコンの例は、ちょっと違うかも知れない。あはは。

スピーカーから流れる「ありがとうございます」が気持ち悪い理由。それは、「意味のない記号に、感情が呼び起されている」という事実に気づかされるから、だ。

スピーカーや人工知能が「ありがとうございます」と言えば、それが意味のない記号だとわかっていながら、おれの感情はピクリと動く。無意識に、意味を見出そうとしてしまうから、感情が動くのだろう。意味のない記号に、ピクリピクリと反応しているうちに、どっと疲れて寝たきりになってしまいそうだ。